【写真家File】Tyler Mitchell ~ 最年少VOGUEフォトグラファーが写す空気の余白

最近、写真集をよく買うようになった。
コロナの影響で中々撮影もやりづらいし、自然と時間が余るようになったので「何に使おうか?」と悩んだ挙句、写真のインプットに充てよう、となった。もともと写真集を買うのは好きだったけど、さらに拍車がかかった形だ。
それで最近知った写真家。
一気にファンになった。
Tyler Mitchell (タイラー・ミッチェル)
ファッション・フォトが好きであれば知ってる方も多いはず。
史上最年少でUS版のVOGUE誌の表紙を撮ったことで一躍有名になった若き写真家(まだ25歳!)
撮ったのがビヨンセだった事もあって一躍有名に。
自分なんかにはVOGUEの表紙を撮影するのがどんなに名誉な事なのか、とか、シャッターを切る時のプレッシャーなんて想像さえできないけど、凄いってことはなんとなく分かる(ような気がする)。
“最年少VOGUEフォトグラファー”
“アフリカ系アメリカ人初のVOGUEフォトグラファー”
とかく、この切り口で語られる事が多い写真家だけど、その盛り上がりに見え隠れするファッションと人種差別の問題とか人種的アイデンティティーの事とか、普段はあまり触れる事のないタイプの「写真の力」みたいな事を考えさせられる。
彼の初の写真集”I CAN MAKE YOU FEEL GOOD”は代官山の蔦屋に行けば、しっかり平積みされてるほど日本でもしっかり売れてます。
SNS世代のフォト・ヒーロー
自らをSocial-Media Savvyと呼ぶ。
あらゆるインタビューを読むにつけ、Tyler MitchellはSNSから駆け上がる写真家の超重要なモデルケースなんだと思う。
それは、「いいねが沢山ついてフォロワーが増えれば、写真の仕事が貰えるぜ」みたいな「SNSからコマーシャルフォトグラファーになるルート」の話ではなくて、フォトグラファーに求められることが変わってきている、っていう視点。
「クライアントに言われた通り綺麗な写真を撮るのではなく、いかに独自のビジョンを打ち出せるかが重要」
VOGUE掲載のTylerのインタビューの言葉。
こういう言い方は語弊があるのだろうけど、スタジオで下積みをして技術を身に着けて独立をして、、、という技術志向のフォトグラファーは前時代的になりつつあるのかなと改めて思う。
車だってカメラだって「ウチの技術すげーだろ」なんてのはもうとっくにプロトタイプで、「技術=価値」とするならば、写真界隈を見渡したって、なんだって皆してフィルムに逆行したりSONYのαにわざわざオールドレンズをぶっさしてるのか説明がつかないじゃないか。
そりゃ当たり前だけど技術は大事。
こんな玉石混交なInstagramの写真界隈で、頭0.1個分でも抜けようと思うならやっぱり技術は必要。「自分らしい写真」とかいくら言っても超下手ならそりゃ見向きもされないわけで。Tylerも「必死に写真を勉強した」とは言ってるわけで。だけど、技術を駆使した写真をゴールとしてしまうと、情緒的な価値が求められるこの時代には、価値として見て貰えなくなってきてるんだろうなぁ、なんて面倒くさい事をついつい考えてしまう。
Tyler Mitchellのいう「独自のビジョン」での勝負。
いかに写真というのがルール無用のフィールドで、それ故に厳しいものかと痛感する。
たまに、昔ながらのたたき上げのフォトグラファーが、SNSフォトグラファーに対して反感を持つとか、「ポッと出てきて、大した技術もないくせに」みたいなマウントを取った的な話も聞くけど、時代の捉え方のピントがえらくズレてる。
自動車メーカーは速い車を作ればよかった。
時計メーカーはより正確な時計を作ればよかった。
カメラメーカーはより高解像度なカメラを作ればよかった。
だけど、そんな速い車を日本で所有しても意味ないし、1年間に1秒しかズレない時計なんて嬉しくないし、高解像度に頼った写真は「オジサンくさい」となる。写真にしても、一定の「正解」みたいなものがなくなって、「なんでもいーから君のセンスで!」と言われる時代になったという事だけど。
それってすごい難しい時代よな、と。
そう思うわけです。
Politicalであること
先ほど紹介したI CAN MAKE YOU FEEL GOODという写真集はとにかくメッセージ性が強い。
「黒人のユートピア」をテーマにした作品達は、どれも色合いが美しくて引き込まれるけれど、反面、政治的なメッセージが非常に強い。その穏やかな画と、強いメッセージの対比。そこに強く惹かれる。
グッチやプラダが黒人差別を彷彿とさせるデザインでガッツリ非難を浴びたり、D&Gが中国を揶揄するような動画を作って炎上したり、ずいぶんと時代錯誤というか間の抜けた問題が頻発するファッション業界。その代名詞といえるVOGUEのフォトグラファーが発する明確なメッセージ。
日本に日本人として生まれ育つと、中々、人種差別とか人種的アイデンティティの意識は育ちにくいし、写真を通じてそういう政治的なメッセージを受け取る機会はあまり無いので、写真の在り方みたいな事について考えさせられる。
写真の余白
素敵だなと思う写真には余白がある。
個人的な意見だけど。
でも、多くの有名フォトグラファーが「余白」ってことを口にしてるって事は間違ってないはず。個人的には最近よく言う「エモい」とは何か?の一つの答えじゃないかと密かに思ってたりする。
一方的に見方や解釈の仕方を押し付けるような強い写真ではなくて、その写真を見た側がその場所の空気感だったり、そこにある感情だったりを想像できる余白がある写真。
Source: VOGUE ”Meet Tyler Mitchell, the Photographer Who Shot Beyoncé For Vogue’s September Issue”
Tyler Mitchellもまた写真の余白に言及している有名写真家の一人だけれど、凄いなと思うのは、それをファッション・フォトでやるってところ。ファッション・フォトは大体の場合、「引き込む」というよりは「見せつける」ような、強い画が多い。つまり、「どーだ、カッコいいだろう?」と一方的に見方や解釈の仕方を押し付けるような写真が多い気がする。
だけど、Tylerの写真を見ていると、「この人はどういう暮らしをしてるんだろう?」とか、「ここは現実の場所なのかな?どういう国だろう?」みたいな想像を思わず掻き立てられてしまう。
振り返ってみると、程度の差はあれ、Instagramで見知らぬ誰かの写真に思わずいいねを押す時。
似た感覚がある。モデルも可愛くて、構図もボケ具合もライティングも完璧で隙のない写真は正直、何も感じない。というか、こちらに解釈の余地がないので、どう受け取っていいか困ってしまう、というのが正確かも。
写真の奥に広がる世界を想像できる。
それがきっと自分にとっての「いい写真」なんだなと改めて気づいた。